短期記憶を失った母と三方五湖へ。「今、この瞬間」を生きる。(前編)

はじめまして。この度、日々の出来事や気づきを綴るブログ『いまに吹く、やわらかな風』を開設しました。

記念すべき最初の記事は、母との一泊旅行の記録です。全3回に分けてお届けします。

お母さんへの、忘れてもいいプレゼント

福井の実家で暮らす母を、一泊旅行に連れ出してみた。

ゴールデンウィークのことだ。

母に認知症の診断がついてから、少しずつ、ものが覚えられなくなっていた。最近また一層、その進み具合が早くなってきたと兄から聞いていた。

今月は誕生日と母の日が重なる。何かしてあげたい。でも、お花を贈っても、誰からもらったかすぐに忘れてしまう。それに、一緒に住んでいる兄嫁の手を煩わせるだけかもしれない。

じゃあ何が、本人にとって本当のプレゼントになるんだろう。

考えた末に、旅行にしようと思った。すぐに忘れてしまうかもしれない。それでも、日常にない体験や景色が、何か生活の刺激になってくれたら。それが、いまできる一番のプレゼントじゃないか、という気がした。

プランは、三方五湖エリアで一泊。クルーズ船に乗ったり、見晴らしのいい展望台に車で行ってゆっくり過ごしたり。人が多すぎず、歩きすぎず、のんびりできる旅にしたかった。

今回は妻と、11歳の娘も一緒だった。

まず最初に困ったのが、トイレだった。

認知症が進むと、トイレに行ったことを忘れて、また行きたくなる。尿意なのか、不安なのか、自分でもわからないまま「行きたい」と訴えることが増える。そういう話は知識として知っていた。でも、まさかこんなに頻繁になるとは、正直思っていなかった。

「さっきも行ったばかりだよ」と言っても意味がない。だから、訴えるたびに全部応じようと決めた。妻も同じだった。トイレを探し、トイレを探し、連れて行く。息子一人だったら、女子トイレには入れず、ほんとうに困っていたと思う。妻と娘がいてくれて、心底助かった。

初日の昼は、福井県敦賀市にある「日本海さかな街」という鮮魚市場を目指した。どしゃぶりの雨の中を車で走り、到着。奮発して「五木ひろし丼」という名の海鮮どんぶりを食べさせようと、意気揚々とやってきた。

(ちなみにこれは翌日わかったことだが、母は五木ひろし、あんまり好きではないらしい。それはまあ置いておく。)

場内を歩きながら「どこで食べようか」とさまよっていたら、母がふいに足を止めた。海鮮バーベキューのブースの前だった。「バーベキューがやりたい」と言い出した。

こちらは海鮮丼で頭がいっぱいだったので、正直、いきなりの肩すかしだった。でも、母がやりたいと言うなら、そこにしよう。豪華なセットを注文した。

カキ、イカ、エビ。妻と娘が一生懸命焼いてくれた。

ところが、「バーベキューがやりたい」と言っていた当の母が、生臭いのがあんまり好きじゃない、とほとんど食べなかった。

かわりに、母とシェアしようと思って頼んだ刺身盛りが、いつの間にかほぼ全部、母に食べられていた。

残ったバーベキューメニューは妻と娘が「おいしい」と食べてくれた。なんとも言えない昼食になったが、母は「お腹いっぱいになった。美味しかった」と言っていた。まあ、結果オーライ、だと思う。

昼食を終えると、チェックインまでまだ時間があった。雨は止まない。とりあえず近くのコメダ珈琲に入った。

座り心地のいい席に落ち着いて、それぞれ注文した。すると母が言った。

「こんな良い喫茶店、いつできたの」

コメダ珈琲は全国チェーンで、もう随分前からある。そう説明した。

しばらくして、また母が言った。「こんな良い喫茶店、いつできたの」

この会話を、1時間の間に5〜6回くり返した。

娘が頼んだクリームソーダが、アイスとソーダの間に謎の空洞ができていて、「どうなってんだ」と家族で盛り上がった。そういう時間がしばらく続いた。母も笑っていた。

その後、宿泊先近くの道の駅に寄った。物産を見ながら、ゆっくり歩いた。その間もトイレの訴えは続いていた。家族三人でこまめに対応していた。

そこでちょっとしたハプニングがあった。

妻と娘がお土産を物色している間、母と二人きりになった。母がトイレに行きたいと言い、近くまで連れて行き、あとは本人に任せた。自分が女子トイレに入るわけにはいかないから。

しばらく待っても出てこない。妻が女子トイレを確認しに行くと、中にいない。もしかして、と思い、今度は自分が男子トイレの前で呼びかけてみた。

個室から声がした。「まだだよ」と。

母の声だった。

男女のマークはかなりはっきりしていた。まさか間違えるとは、全く想定していなかった。妻と顔を見合わせ、二人とも言葉が出なかった。

以来、母を一人にしない、という家族内の約束ができた。

ホテルへ向かう車の中で、母が窓の外を見ながら言った。「あの山、富士山みたいだね」

「いや、ここ福井だよ」と返した。

母は「あ、そうか」と素直に受け入れた。

この旅を通じて、母が何か勘違いをしても、指摘すれば受け入れてくれる。それがわかってきた。全部黙って流すわけでもなく、全部正すわけでもなく。受け入れていいことは受け入れて、そうじゃないときは一言返す。そういうやりとりのリズムが、少しずつ決まっていった。

ホテル編に続く。

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